【コーチ紹介】第四回 フットボールクラブ 森岡幸太監督

各クラブのコーチにインタビューを行い、ゼブラに入ったきっかけや、どのようなことを考えてコーチングをしているかなどを伺う新企画のコーナー第四弾です。

今回は、フットボールクラブの森岡監督です。


-サッカーとの出会いは?-

今年で42歳になりますが、我々40歳ぐらいのおっさんにはありがちな、小学校3年生ぐらいの時「キャプテン翼」をTVで観て感化されたのがきっかけですね。その後、友達に誘われ、町クラブに入ったのは小学5年の時でした。中学校、高校はサッカー部に入っていました。しかも中学、高校とも新設校だったので、試合をやる時に人数足りるかどうか微妙な感じのチームでした。最初はコーチもいなく、ああやろう、こうやろうと自ら考えてやっていました。今考えると自分達で試行錯誤やってみるという力は、身につけられたのかもしれませんね?とにかく先輩、後輩、同級生と今でも時々会う一生の仲間に出会いました。


-高校を卒業されてからはどうされたのですか?-

周りは大学へ進学する人が多く、僕もなんとなく行こうと考えて両親に話したところ「大学行って何やるのだ?」と聞かれて、大学に行ってから考えようと思っていた私は、その時答えられなかったのです。
「今のうちに自分のやりたいことをやった方がいい」と言われて、もう一度自分の進路について考え、サッカーがしたいと強く思うようになりました。
しかしサッカーがしたくても実力がある訳でもなく、ここからが無謀なんですが高校の英語の先生に頼み込んで英訳してもらいイングランドのサッカー協会に手紙を書きました。

「僕は日本人でサッカーをやっていて、どこか受け入れてくれるところはないですか?」みたいな感じの手紙だったと思います。そうしたら返信が来たんです!でも内容は「君を受け入れることは基本的には出来ない、だけどチャンスをつかんで是非頑張って欲しい。」と書いてありました。
何処の馬の骨か分からん奴を受け入れないですよね・・・(笑)

しかし僕の中では諦めると言うよりはまた違う方法を探そうと。その後、高校の先生に語学留学でブラジルに行かれていた方がいらして、その伝を辿り、サッカー留学していた方に会わせてもらい、それがきっかけで高校卒業してすぐにブラジルに単身でサッカー留学行くことになりました。練習はブラジル サンパウロ大学のクラブチーム。日系人の寮に住み、一日中サッカー漬けの毎日でした。

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-言葉はどうやって覚えたのですか?-

まったく話せないまま行きました。監督、コーチ、チームメイトは当然ブラジル人です。言っていることは全く分かりません。行ってすぐに、監督が言っていることが分からないと一選手として見てもらえないことを凄く感じ、これは言葉覚えないと話にならないなと思いました。
もちろん週に何回かポルトガル語の授業がありましたが、その授業だけでポルトガル語を素早く修得出来るかというと、そうではないなと思い、寮で生活していたので、ブラジル人や日系人を捕まえて、夜中まで勉強しました。あの時が人生で一番勉強したかもしれませんね・・・(笑)

一ヶ月が過ぎた頃、何か監督が言っている単語がちょっと分かるようになり、時間が経つにつれて、文章で分かるようになって、日常生活では段々と不自由なく言葉が使えるようになってきました。

そうなると監督とのコミュニケーションが少しずつ出来るようになり、監督もいろんなことを僕に伝えてくれたり、試合で要求してくれたりするようになりました。他の留学生に対して監督の通訳をするパイプ役みたいになり、3ヶ月ぐらいしてようやくチームの一員になれてきたという感覚がありましたね。


-その後はどうされたのですか?-

ブラジルには約2年程いました。寮に住んでいる時、四日市中央工業高校サッカー部・監督の樋口士郎さんが、研修で半年間ブラジルに来ました。一緒にサンパウロ大学のチームで練習し同じ寮で寝泊まりしていました。私自身先々の事を考えた時にプレーヤーとしては難しいのは分かっていましたが、サッカーが好きだったので、樋口さんが研修を終え、帰国される前に、樋口さんに質問しました。

「サッカーに携われる仕事をするためには何をしたら良いですか?」とすると樋口さんは、四日市中央工業高校のゴールキーパーコーチが不在だったこともあり「幸太うちのチームでゴールキーパーコーチやってみないか?」と声をかけてくれました。僕は全国大会に出たこともないし、サッカー選手としても経験豊富でもない、そんな僕が教えられるのかな?という不安が大きく即答できませんでした。そして樋口さんが日本に帰られて2週間ぐらいたった時、寮にFAXが来ました。


-まだその頃はメールでは無いのですね?-

メールなんて無いですね。いやメールはあったかもしれないですけど、携帯も持っていませんでした。「幸太どうなった?答えは?」と書いてありました。
僕の中でも考えてはいたけどFAXが来たときに真剣に考えてくれていたことに感動して、指導者・コーチだけど半分は樋口さんの基でサッカーを勉強したいという想いが強くなり「是非やらせてください」と返答しました。そしてブラジルでの約2年間の留学を終え帰国することを決めました。


-四日市中央工業高校には何年いたのですか?-

ゴールキーパーコーチとアシスタントコーチで7年間外部コーチをさせていただきました。
この頃はサッカーの指導者=学校の教員という学校体育が主流だったので、指導者を目指すなら、学校の先生にならないと思い、コーチの傍ら、通信で大学生をやり、中学社会、高校地歴公民の教員免許を取得し、教員免許取得後は、三重県の公立中学で社会科の非常勤講師として教壇にも立っていました。

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-次に移られたきっかけは何だったのですか?-

元々埼玉で生まれ育っていて親もいるので、関東の方にいずれ帰りたいと樋口さんに相談していて、樋口さんも行き場所を探してくれていて、ちょうど同じ時期に、樋口さんの弟さん(樋口靖洋さん)が横浜F・マリノスのトップチームのヘッドコーチで、ちょうどマリノスで育成のコーチを探していたので、横浜F・マリノスの追浜Jr.ユースとプライマリーという小学生のチーム、スクールのコーチ、ゴールキーパーコーチをすることになりました。
その後、僕がマリノス赴任してすぐ宮内聡さん(現成立学園サッカー部総監督)に「一緒にやらないか?」という話しをいただきました。僕が四日市中央工業高校にいる時、宮内さんが女子日本代表監督を終え、臨時コーチとして四日市中央工業高校で3ヵ月間いらして、短い間ではありましたけれど一緒にやらせていただいていたので覚えてくれていたのですね。
成立学園サッカー部は初めて全国大会に出る、という代の時期でした。


-それは山田育也コーチがいた頃の?-

そうです、山田コーチが高校3年生のときです。その時に一緒にやらないか?という話しをいただいたのですけど、僕もマリノスに移って何か月もたっておりませんし、今は「行けません」と返答させていただきました。
その後夏を過ぎたあたりで一回飯を食べようぜ、と誘われました。場所がお台場でした。{ラーメンを食べながら。}


-えっ?ラーメン?お台場で?-

お台場なんで、どんなもの食べさせてくれるのだろうって期待していたのですけど、「お台場まで来てもらったのはこれからTVの解説があるから。そこのラーメン屋でいいだろ?」って(笑)
ラーメン食べながら成立学園というのはこういう考えで自分はやっている、だからどうだ?とお話ししていただきました。そのお話を聞き、成立学園で一緒にお仕事出来たらな、とその時に強く思い決意しました。


-横浜F・マリノスってブランドですよね?-

僕が成立学園に決めたのは、宮内総監督と一緒に仕事したいという気持ちがスタートでした。だからマリノスって名前、成立学園という名前で決めた訳ではないです。
僕の中では別に迷いとかは無かったですしブランド力とかは、自分の進む道を決断する判断材料としては低かったと思います。
しかし横浜F・マリノスというクラブでしか経験できない事や、育成年代のトップレベルの子供たちと触れ合えたことは僕にとってとても良い財産になっています。


-成立に入ってどんなことをやったのですか?-

2004年に成立学園に入って、まずはゴールキーパーコーチをやりながら高校1年生を担当しました。その後はBチームを担当し、2009年2011年2012年と高校の監督も経験しました。
今回ゼブラの監督のお話しいただき僕自身にとって、新しいチャレンジだと考えています。

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-高校のコーチをやられていてもゼブラの動きとかは見えますよね?-

ゼブラが立ち上がった頃は、まだまだゼブラ出身の子が高校の幹になるかというとちょっと厳しい状況でした。でもここ数年ゼブラの子が年々主力で出るようになってきました。
人間的にも技術的にもゼブラでベースをしっかりと身に付けて、高校に来て欲しいということを、ジュニアユースだけでは無くて、選手コースやスクールもあるので、逆算して考えて指導に携われたらなと考えています。
もちろんサッカーで日本を代表する選手にも育って欲しいですけど、プロ選手を育てるということが私の優先順位の1位でもないんです。

人間的に大きくなり大人として、どんなところでも通用するようなベースを築いてくれる人間になれるように、サッカーを通じて身に付けられるものを共有できればと思っています。
今後とも精一杯頑張ってまいりますのでよろしくお願いします!